リズムはエネルギーの痕跡

有賀 誠門

 長年、ティンパニを通して音楽を続けてくると、ティンパニという「もの」が非常に不思議に思えてくる。何しろ鍋型金属の器の上に一枚の皮を張り、その皮の締め具合で音程を作るわけである。最新型といっても電気を使ったわけでなくペダル操作で一枚の皮の貼り具合を調整するのである。円形の周囲が節になるわけである。それを一点にまとめる。

 丁度、風船に空気を一杯入れて締めた状態と同じである。シャボン玉も同じだし、ボールも同じである。中が物で一杯であれば、風呂敷に大きなスイカを包んだ状態と同じである。中が物でつまっているか、気でつまっているかの違いである。共通点は「まるい」ということである。撥(バチ)もまるい。樹木もまるい。管楽器もまるい。弦もまるい。弦をこする弓に張った馬の毛一本一本がまるい。それらを扱う人間の指もまるい。腕もまるい。目もまるい。鼻の穴もまるい。すべてまるい。木琴も、まるい木を弾きやすく平らにしただけのこと。水がまるい大地をこすりながら流れる。打楽器は自然のものを利用し、様々な響きを創り出す不思議な楽器です。

 何故、人間は音楽を考え出したのでしょう。今日ほど便利でないときから、音楽はあったのです。リズムを打ち出していたのです。大地を足でドンドンと打ち鳴らしつづけたのです。足は立派な音楽をするのです。手はもっと複雑にして微妙な音楽を創り出します。声はより共鳴する響きを創り出します。体中が音楽響鳴体!!鳴り響くために体の中が空っぽになる。呼気、吸気が音楽になる。
 
 さて、本当にこれらの体を動かしているのは、筋肉ではなくて、筋肉をその様に動かす何かみえない神経が働いているのではないでしょうか。実に純粋な動きを作用させるもの。去る四月、大阪の音響会社の無響室で打楽器演奏の実験があったのですが、吸音板に囲まれ床の上でなく網の上に乗った状態に自分を置いてみると、まわりのことよりも自分の体の鼓動が、ドキン、ドキンと鳴り響くのがとても印象的でした。心臓の中の血が、何かに支配され、体中に運ばれている。私の命令なしに……。鼓動が響きわたる。鳴り響く、渦巻く響き、響きが動きまわる。それは何かから打ち出され、引き出され、かき出されている。これこそ人間が生きる営みの原点である。

 心が打ち鳴らしつづけ、かき鳴らしつづける。それを引きあげつづけ、最後に引き渡す時がくる。何ともすさまじいドラマではないでしょうか。

 リズムとは、「エネルギーの痕跡である」とドイツの有名な指揮者、チェリビダケ氏の言葉に出合ったときの喜びはこの上ないものでした。リズムという言葉をこれほど適格に表現した言葉は他に知りません。目をひらかれる思いでした。私が、今「ある」上で最も大切なバックボーンであります。我々は見ることの出来ない何かから生を与えられたエネルギーの痕跡である。自分とは自然から分けられたもの、息は、自と心とに分けられ、自然から与えられた心となります。意は、音と心に分けられる。心のつく漢字をあげてみると面白いです。自然から与えられた身となれば、その体を知ることが何より大切なことになります。体を通して自分の内面をみつめる。

 物を扱うことを通して自分自身を知る様になる。人と人とのつながりに発展する。すべての囲いが取れ、純粋な響きを感じる様になる。すべての現象を音楽として感じる様になると、対象をよく理解しようと努力する様になる。これこそ共振の世界である。

 響きわたるもの鳴りひびくもの-これは至福の境地であり、音楽三味にひたれる。

(1991.9 「郵政」)