パーカッションのルネサンス
打楽器奏者の目から見た今日の音楽と音楽教育 —— 連載第8回
— ティンパニと20世紀音楽
打楽器を演奏するには、何よりも自分の手足をふんだんに使いますから、自分の体の秩序について十分理解することが何よりも大切です。呼吸は立派な音楽なのです。そして通常、撥(ばち)というものを使用しますが、我々、朝起きてから寝るまでさまざまな状況において種々の棒状のものを使います。まず歯ブラシ、櫛・・・等、皆さんであげてみて下さい。中でも弦をひく弓はやはり操作が極めてむずかしい部類に入ることがおわかりでしょう。打楽器を演奏する人は、運弓のフィーリングを、ぜひとも体感してほしいと思います。日頃、何気ない動きに注意することが自然体にしてくれます。
さて、しばらくぶりに歴史を振りかえってみましょう。ティンパニの調律を目的とした8つのネジが完成して以来、ティンパニの製作技術に、たいした進歩はみられません。しかし、作曲家がもっと自由に、しかも楽にチューニングができないものだろうか、そのために何かなされなくては、ということで1812年、Gerhard Cramerが、奏者が一つのスクリューをまわすことにより、相応じて他のすべてのスクリューも動くメカニズムを発明して、第一歩を踏み出しました。18年後(1830年)、フランスのHenry Bradが現代のペダルティンパニ(ペダルの上げ、下げでピッチを変える)の原型ともいうべきものを発明しました。もしも、ベルリオーズが1836年、完成されたペダルティンパニを、彼のスペクタキュラーな〈Requiem〉の初演に自由に自分のものとして使うことができたなら〈Tuba Marum〉の中の有名なロールは(10人の奏者で16個のティンパニを使うかわりに)3人の奏者で8個のティンパニで書かれたでしょう(この方法でC. ミュンシュはボストンシンフォニーを指揮し、RCAに録音している)。
偉大なるピアニスト、F ・リスト、もっとも華々しい技巧派ヴァイオリニスト、N. パガニーニが出現したように、最初の偉大なるティンパニストはErnst G. B. Pfundt (1806~1871年)であります。彼は、自分の演奏芸術を熱情的に行なうばかりでなく、メンデルスゾーンや、その他の指揮者のもとでゲバントハウス・オーケストラと共に活動した36年の間に、より進歩したペダル式ティンパニを完成し、ティンパニ奏法についての論文をも出版しました。
ロマンティークの時代からオーケストラのバレットは豊富になり、民族色を取り入れた作曲家たちによってスタンダードなシンフォニーオーケストラは、Timpaniの他にBass Drum, Snare Drum, Cymbal. Triangle, Tamb. de Gasque, Castanets, Gong, Bell. Xylophone, Glocken, Celesta, Anvil, Antique cymなどを持ち、打楽器セクションをかかえるようになりました。
G・マーラーが巨大なシンフォニーを書いていた時代に、オーケストラの打楽器群は実質上、一つの部門として考えられるようになりました。パリの万国博覧会で、インドネシアのガムラン音楽に影響されたドビュッシーや、ラヴェルのような印象派の管弦楽法は、ドイツロマン派の「雷と嵐」の鋭い対照とは違い、繊細さと音の瞬きへの探求を導いたのです。I. ストラヴィンスキーは、1913年、彼の記念碑的作品『春の祭典』で、慣例的なコンサート音楽のリズム形式から打楽器奏者を解放したのです。最後の「生け贄の踊り」において二人のティンパニ奏者は、3/16、4/16、5/16の連続する小節で自分たちのやっていることが革新的なことであることを知ったのです。ベートーヴェンの第9交響曲を思い起こします。パリでの『春の祭典』の初演が大変なスキャンダルを呼んだのはあまりも有名な話です。
一般にあまり知られていないことですが、第1次世界大戦のちょっと前、若き音楽家(Creative Musician)の関心の対象は、新しい音の世界を征服しようという衝動に駆る電子音楽でした。それまでの甘すぎる、そして重すぎる音色から音楽を解放すること、また正規のリズム、拍節、アクセントのパターンに変化を与えようというものでした。
アメリカにおいてはチャールス・アイヴスが、10年以上も多旋律音楽を作曲していました。彼の独創的な作品は一般に受けませんでしたが、アメリカ音楽の発展に重要な役割を果たしました(*)。そして、ヘンリー・カウエルという15歳のピアニストが握りこぶしや、肘で奏されるパーカッシヴなピアノ演奏を試みていました。まさに「音の破壊者」でした。イタリーでは、ストラヴィンスキーの『春の祭典』初演後、1週間もたたない頃、28歳の未来主義者、ルイージ・ルッソロが、特別に作られた騒音楽器を用いて演奏会を行ない、3ヵ月前には(Futurist Manifest〉という雑誌まで発行していました。「我々は、純音楽的な音の狭間から、不定な雑音の種々を征服し、打ち破らねばならない」と宣言しています。
(*)参考文献
「メニューヒンが語る人問と音楽」
(The Music of Man)
イェフディ・メニューヒン、カーティス / W ・デイヴィス著
別宮真徳監訳
日本放送出版協会
(1993.6)