私のひとり言

有賀 誠門

 ここ十年、吹奏楽の発展ぶりには目をみはるものがある。ビートルズ以来、ジャズ、オーケストラだけでなく、フォーク、ロック、民族音楽等、音楽の種類が多くなったことと、テレビ・レコード・録音器類の音楽産業の発展も起因の一つだと思う。

 とりわけコンクールが、良い意味でレベルアップにたいへんな頁献をしている。またパレードも日常的になり、外国との交流も容易になり、すぐれた演奏家、演奏団体の演奏に接する機会も多く、良質の楽譜の購入も可能になった。日本が経済的にかなり裕福になったからである。

 しかし、表を高価なもので派手にすることはできても、その裏側、中身が問題なのである。これはすべてのことに置きかえることができる。これが今後の吹奏楽の課題のような気がする。コンクールを聞いても、演奏技術の差はほとんどなくなってきた。そこでより要求されることは内面性というか精神性、より深いもの、物の本質が要求されてくる。

 我々は明治以来、西洋音楽を音楽として親しんできた。西洋の文化遺産を借りて発展してきたのである。ここで形だけ借りるのでなく、我々の生活の中に活かし、より西洋音楽の本質と語法をより理解する努力をせねばならない。そして日本が誇り得るものを創り、外国に紹介する努力をせねばならない。

 二十年来、自分で音楽演奏をしてきて根本的に違うのは、リズム感と音色感の二点だと思う。日本のクラシック音楽をやっている人たち(批評家を含め)は、ああブラスかと一種の軽蔑でみる。このような人たちに限ってある音楽だけに凝り固まり、自分の専門以外わからないのである。すべての楽器の発音原理は声を出すことと同じである。

 さて、一つの考え方として私は音符を足跡と考える。歩くということが、音を運ぶことにつながる。私は大いにマーチングをやることをすすめたい。マーチングは生きたリズム感と正しい歩き方を学ぶのに最適である。よくリズムが悪いとかいう人がいるが、そういう人は歩き方がちょっと違うのではないか。さらにダンス、バレエにも関連させ、運動美を音楽で表現するようにする。歩く動作から、発声・発音することの正しい呼吸法と、姿勢、奏法を学ぶことができる。

 よくマーチングをすると音が荒れるというが、それは蛮声を張りあげ、わめくからであり、遠くに届く、とおる音を出すようにすればいいのである。

 野外という空間--これほど素晴しい音空間がどこにあるだろう--に音が飛びかわせる行為。美しい響きは透明なほどとけあう。考えただけでぞくぞくしてくる。マーチングというと特殊な歩き方と思う人がいるが、これは誤った考え方であり、日常生活の「歩く」という行為をもっと科学的に考えてみる必要が十分ある。そうすれば思考法も変わってくるのである。西洋人と日本人の歩き方の違いは、直接リズム感につながるものであり、オペラ歌手には最も気を使わねばならないことの一つのはずである。街をゆく女性がハイヒールの意味も知らずに歩いている姿はコッケイですらある。

 ヴァイオリン奏者も弾き語りするつもりでやればだいぶ歌い方も変わるはずだ。そこで私は、音楽をしている人たちは、もっと歩くということに関心を持ってほしいと思う。世の中、便利になればなるほど、人間は動かなくなる。無機質人間の増加を防ぐためにも、吹奏楽を通して有機的な人間になり、音楽をせねばならない。吹奏楽を通して、あらゆるジャンル、スタイルの音楽に接することができる。

私は打楽器をやったおかげで、オーケストラで西洋音楽の本質にふれることができ、弦楽・管楽器・声楽・舞踊等、さまざまな組み合わせで、古典から現代まで幅広い音楽に接し得た。打楽器合奏をすることにより、体の動きとリズム関係(体の動きは、演奏法に直接つながるものである)、リズムに弱い人を強くする方法、楽器を使用しない基本奏法、変拍子に強くなる方法、らくに歩く方法、合理的な階段の昇降方法、声と音色、音符の読み方等を学んだ。音符の読み方では多くの人たちが錯覚している。

 私は、子供は国の財産と考え、健全な青少年を育成するために、ぜひとも小学校、中学校の音楽教育に、弦楽楽器を含め、吹奏楽器、打楽器、すべての楽器を使った合奏を取り上げてほしいと望み、体を動かす楽しい音楽から、さらに美しい、より高い音楽への憧れと、深い感受性を持つ人たちを一人でも多く世の中に増やしたい。ただ楽譜を音にするだけでなく、音楽に感動し、音楽をすることにより、より音楽を愛し、人間を愛し、自然を愛するようになってほしい。音楽は、人間形成に最も大切であり、長い人生を支えてくれる。人間を自由にしてくれる。吹奏楽は、その働きを十分にはたしてくれると私は信じる。