パーカッションのルネサンス 37

打楽器奏者の目から見た今日の音楽と音楽教育 —— 連載第37回
• Up感覚=なめあげ運動=ヴィヴァルディの「秋」

有賀 誠門(打楽器奏者)

 ひらめき、刺激は心のありよう。常に新鮮な息吹きをしていると、皆さんはいつまでも青春を続けることができます。先日、ある会に出て感じたのは、「手をあげる」という基本動作が全然できない大人(特に女性)があまりに多すぎることでした。そして、その意味をわかろうとしない態度には、あきれてものが言えなかったのです。しかも、そこに出席している人たちは、ある指導的立場にある人たちなのです。社会の「常識」に汚染され、教育された意識しか持ち合わせないことの恐しさを目のあたりにして、日本の教育の原点は何なのか?つくづく考えさせられました。

 そういう中で音楽教育がなされているかと思うと何とも憂鬱になります。明治時代に西洋音楽が日本に輸入されて100年になりますが、技術はかなりなものになったものの音楽の心が教えられてこなかった。だから、いまだに外国から数多くのオーケストラ、オペラ団が輸入されている始末です。その外国製でも、二流、三流が輸入されている現状なのです。演奏者側にも責任があります。音楽の本質を勉強しようとしていないこと。ある日本の高名なオーケストラがBernsteinの《West-Side Story》を演奏していたのですが、全然「のり」がなく、音楽とは裏腹な表情で演奏していました。これから音楽を勉強しようとする人たちが、一体これはどういうことなのか?と疑問をもっているのです。クラシック音楽は、これからますます儀式化していくのではないのでしょうか。物質化していくところには光はありません。権威のみが残るばかりです。

 松岡正剛という人は人間存在をあらゆる側面から解きあかしている人ですが、彼のような柔軟な、しかもグローバルな思考こそが、われわれにcreativeな精神をふき込んでくれそうです。ぜひ皆さんに知っていただきたい名前です。彼が書いた『イメージの遊学』(工作舎)は皆さんを知的冒険にかりたてるでしょう。この中で心に残った言葉を引いてみます。

”存在するものすべて静止するものはない。われわれは摂動する本体である”
”物質が光になろうとする努力こそ魂である”
”コミュニケーションというのはほとんど化学反応である”

 この本を読んでいると心がUp感覚になってくるのです。日常の現象がとてつもなく大きな現象につながるのが、とても愉快な気分にさせてくれます。もっと知りたくなる意欲をもたせてくれます。

 さて、相手に何かをうながす時に合図なり、ある刺激を与えねばなりません。いちばんふつうに行なわれているのは、「ハイツ」、「どうぞ!」だと思います。一見やさしそうにみえますが、この「ハイッ」のタイミングと勢い、しかもどのような方向に向けるかが大切です。次の「どうぞ」へのつなぎの息使い(呼吸)が大切になります。あるpointとあるpointに対する「意の感覚」はSwing、「なめあげ運動」です。体全体がそのように動いていなければなりません。前にも書きました。椅子にすわり、ガタン、ガタンと前後にゆすって下さい。

 それでは、その動きでヴィヴァルディ作曲の《四季》より『秋』を歌ってみましょう。(譜1)

 2拍、4拍がupになっているのがわかるでしょう。3小節目の1拍の裏

もUp感覚です。「なめあげ運動」の典型です。

 譜2のパターンも弾みが出ています。2、4拍がUp感覚です。譜3のラルデットのあとに出てくる

も十分に注意して下さい。

とならないように!!

 第2楽章のAdagioもすべてupです。第3楽章のAllegro(譜4)は、ふつうの3拍子感覚で振らないこと。図のようにすると、2拍目が流れてしまいます。すべてをUp感覚で感じることです。1拍目は上に放り上げる感覚です。2拍目は受け取る感覚でなく、放り上げる感覚です。2拍の感じ方は非常に大切です。

 譜5の場合も2、3拍が引っかかるようにpointをしっかりとり、Up感覚で1小節目をagitatoし、2小節目でおさめる(ただし遅くするのではない)。譜6のようにUp感覚で歌いあげて下さい。

 

(1996.11)