「在る」-そこに「在る」ものが響いている。すべてのものが生きている。活きている。活かされている。
自然とは「おのずともえている」「発源している」。息とは、おのずの心であり、忘は心を亡くし、思は心の上に脳がある。恩は、心の因になり、意は、心の音である。そうなれば、息子とは、まさに天から授かった天の子ということなのでしょう。天とは一にして大きいをくっつけた字である。太鼓の太は「大にして大」の意であり、鼓の偏は腹を意味し、「支」は体から出た手足をいう。太鼓は大宇宙と人間の仲だちをする小宇宙という。日本では太鼓の胴にする樹木を切り出す時、自然の神に感謝する神事を行ない、太鼓は神に奉納されるのである。アフリカの太鼓も同じように、皮は心臓、胴は循環器、上皮下皮を引っ張る紐は神経であり、太鼓の中に入れられている一つの小石、あるいは木の実は「魂」を象徴しているという。体の伸縮運動-踊り-は、神(太陽)への感謝だという。顔が自然と上を向き、手の上手運動はまさに、太陽への、神への、天帝への、自然への「あがめ」、LOOK UP運動である。upのつく語を列挙してみます。upは低い位置から上への方向を表わします。
Curtain up, get up, stand up, step up, dress up, close up, lift up, keep up, heel up, make up, hip up, image up, down up, open up, touch up, drink up-何かひらかれた感じがしませんか?
あるものとあるものとの接点!での摩擦によって「その間」から音が出ます。手と手を合わせた中に音が込められている。光が込められている。音楽の楽は仏教語では「楽う(ねがう)」意と教えられたことがありますが、「祈り」はまさに音楽となるのです。手と手の間にある音をひろげる。音は、光や火にたとえることもできる。オーケストラの弦楽器群の上で音が、火が、光が、音楽という形で燃えている。あるいは、音楽という形で、火が光になって燃えている。音は、火は下から上に燃えあがります。しかも「今」という瞬間をUp感覚でつかみつつ、解放させつつあるのです。楽譜という平面図を立体音像にしつつ••••••。
先月号で発着のリズム感を述べましたが、「発」のつく漢字をあげてみましょう。発芽、発達、発展、発育、発明、発音、発信、発火、発想、発見、発揮、発言・・・。発にはあるポイントがあり、それが拡がっていくイメージがあります。「ひらめき」はまさに「発」なのです。そして腹の底から湧きあがる(下から上に)気の発散、気合、持続しつづける声、全エネルギーが生きている証拠だと思います。万物はまるい。地球もまるい。月もまるい。太陽もまるい。太鼓もまるい。撥もまるい。柄もまるい。樹木もまるい。管楽器もまるい。バケツもまるい。ナベもまるい。食器もまるい。弦もまるい。馬の毛1本もまるい。それらを扱う人間の指もまるい。腕も足もまるい。目もまるい。鼻の穴もまるい。腸もまるい。ウンチもまるい。リンゴ、ブドウ、大根、人参もまるい。木琴もまるい。木を弾きやすく板状にしただけのこと。シンバルもまるい。up, downだけでなく円運動が基本運動になることがおわかりいただけると思います。不思議なことに楽器といわれるものはほとんど中がカラッポなのです。
老子曰く、器は粘土でかたどられる。そして何も存在しない空問ゆえに人はそれを器として使うことができる。入口や窓は家の壁に穿たれる。そして、無の空間ゆえに人はそれらを使うことができる。即ち、形あるものに利用価値があるのは形のないものの働きがあるからと。
Up感覚はある位置を離れる瞬間が非常に大切なことです。位置を時間におきかえることでもあります。足を上にあげることは上に昇る運動であり、歩く運動は螺旋を描きつつ昇って行くのです。宇宙への、天国への永い旅でもあります。
ポイントとポイントの間で裏を感じる「のり」を感じることができるようになりましたか? それを感じることができると、クラシック音楽が何とも「のり」のいい音楽に変身してしまうのです。そう、Swingです。
ベートーヴェンの交響曲第5番をほとんどの指揮者が、そして演奏家がdown発想で演奏しているため、第1楽章、第3楽章が何とも暗く、落ちつかないのです。
第1楽章は短調にもかかわらず、生命あふれる忙しくないテンポでSwingしつつ歌いあげることができます。次回のお楽しみとしましょう。
1993.3