コンサート打楽器の能力を百パーセント引き出す方法

有賀 誠門

音楽という地下水脈

 コンサート打楽器の能力を百パーセント引き出す方法‐‐これは、スクール・バンドの指導者の方々にとって、かなり魅力的なタイトルだと思います。このタイトルをご覧になった時、どんな内容を思い浮かべられるでしょうか。「毎日の基本的な練習方法」「基礎練習に使用する楽譜」あるいは「実際に曲を指導する時のポイントを、実例をあげて具体的に」といったことではないでしょうか。しかし、残念ながら、本稿の内容はそうではありません。アテがはずれたから、といって読みとばさないで下さい。もっと大切な、しかも効果的な方法をお教えしましょう。

 その前にひとつ、お話ししておきたいことがあります。わたしは、スクール・バンドのコンクールの審査員をやっておりますが、その演奏のレベルの高さには、いつものことながら感心させられます。ある時、金賞をとったバンドに呼ばれて、打楽器セクションの指導に参りました。そこで、とりあえずごく簡単な打楽器アンサンブルをやって、楽しみながら緊張をほぐそう、と思ったのです。ところが、驚いたことに、彼らはテンポもろくにとれない。コンクールであのむずかしい曲をこなした人とは、同一人物とは思えないほどメチャメチャなのです。試しにコンクールの曲をたたかせてみると、ピシッと決める。

 はっきりいって、これは変です。困ります。どうしてこんなことになってしまうのでしょうか。それは「技術(テクニック)」というものを誤解しているからではないか、と私は思うのです。技術というものは、本来、音楽を表現するために存在するのです。そして音楽というものは、どの曲の底にも地下水脈のように共通して流れているものなのです。ですから、たいへん高度な技術を要する大曲は上手に演奏できるが、シンプルな打楽器アンサンブルはまったくできない、などということはないはずです。

 その、ないはずのことがおこるのは、なぜか。たぶん、地下水脈が流れていないからです。技術だけで成立してしまっているからではないでしょうか。その曲だけ、絶対に問違いのないように、いつも寸分違わず演奏できるように徹底的に練習する—‐こういうやり方では、本当の音楽(音が苦、ではなく音楽)は生まれません。

 そこで、先ほどの話に戻りますが、「基礎的練習方法」や「具体的指導のポイント」、こういったものも、その底に流れる音楽の地下水脈を指導者がはっきり把握していてこそ効果もあがり、生きてくるものなのです。巷には超具体的な指導書が溢れています(わたしもその一部を担っていますが)。具体的な指導方法はそれらの本にまかせることにして、わたしはここでは、それらの本を本当に活用するために指導者が知るべきこと、つまり「音楽という地下水脈」について語りたいと思います。

マーチングはリズム感を養う基礎練習だ

 まず、音楽を構成する「音」というものについて、改めて考え直してみましょう。「音」をきいて、何がわかるか。たとえば、今、皆さんの後ろで何か物音がしたら、それを聴いて、どういったことがわかるでしょうか。はじめに、それが何の音であるかを考えるでしょう。コップが落ちて割れた音か。ドアを開ける音か、人の話し声か、車の音か、あるいは風に騒ぐ木の葉の音か、楽器を奏でる音か、そういった音の質がわかります。その音がどれくらい遠くでした音なのか、つまり距雑もだいたいわかります。響き方によって、石の建物の中か、あまり音の響かないような場所かといった、環境もおしはかることができます。もう少し意識して聴けば、音の明暗、軽重、楽しい音か悲しげな音か、弾むような音かゆったりと流れる音か、そういった音の色彩を感じることもできます。

 このように、音は様々なものを含み、我々にそれを伝えてくれます。これは、あたりまえのことでありながらも、よく考えてみれば実に不思議なことです。この不思議さを感じ、日常生活の中に溢れる音の中に何かを感じること、これが、音楽への第一歩だと思うのです。

 たとえば、あいさつ、これも音楽です。「おはよう」ひとつとってみても、ひとそれぞれ、様々なメロディーを持ち、リズムを持っています。そのひと声で、元気があるかないか、その人の気持ちまでをも知ることができるでしょう。もちろん、コトバも音楽です。また、歩くことや走ること、何かを持ち上げたり投げたりすること、立ったりすわったりすることといった、日常の動作も音楽です。なぜなら、そこには「リズム」が存在しているからです。

 今日いわれるところの「音楽」は、このような日常の動作や生活から生まれ、育ってきたものです。ですから、確かなリズム感を養おうとするならば、こういった動作や生活の中に学ぶべき点が多いということになります。そのいい例が「マーチング」です。

 わたしは以前、オーケストラに在籍していましたが、悲しむべきことに、オーケストラの団員の中には、吹奏楽やマーチングといったものを、一段低いものとして見倣す傾向がありました。ひょっとすると、吹奏楽をやっている人の中にも、「マーチングなんて……」と、思っている人がいるかもしれません。

 しかし、それは大きな間違いです。胸を張り、足を上げ、のびのびと歩きながら演奏するということは、見ていても、そして演奏しても気持ちがいいものです。それは、「歩く」という人間の基本的な動作と、リズムと音楽が一体となっていることの喜びなのです。こういったリズムは、本当に生きたリズムといえるでしょう。そして、歩きながら心と体に刻みつけたこのリズム感は、室内楽をやる時も、吹奏楽を行なう時にも生きてくるはずです。普段の練習の中に組み込まれたマーチングの練習、それはとりも直さず、リズム感を身につける基礎練習ともなるのです。

オーケストラの音をどんどん聴こう

 次に、西洋音楽、特にオーケストラがどのように生まれたものであるかを見てみましょう。

 オーケストラとは、ひと言でいえば、日常の生活の中から生まれた様々な音を、磨き、高め、非常に大きなもの、深いものを表現できるひとつの理想的な形、完成された形にしたものであるといえます。

 音楽の役割という側面から考えますと、オーケストラ以前、西洋には様々な「~のための音楽」がありました。鍛冶屋が仕事の時うたう歌は、トンカントンカンと槌打つリズムとピッタリと合ったものだったでしょう。村の踊りのための音楽は、足や手の動きと合った軽快なものだったでしょう。酒のための音楽なんていう楽しいものもあったといいます。また、戦争のための音楽などという、物騒なものもありました。食事のための音楽、狩猟のための音楽、儀式のための音楽、時を告げる音楽……みんな生活の中から生まれ、生活と密接に結びついているものです。音楽はまた、教会にもとり入れられ、大きな発展を遂げました。「宗教」という精神的世界と結びついていったのです。ここからまた、思想的・哲学的なものへとも結びついていきました。今日、吹奏楽でよく演奏される西洋の作曲家の曲の中には、こういった西洋の生活、歴史、思想、哲学、宗教という多くのものが、包含されているのです。

 こんなふうにいいますと、もう、まるでむずかしくて、中学生や高校生にはとても演奏できないようにきこえるかもしれませんが、そんなことはありません。要は「音を求める心」です。音楽を、といいかえてもいいでしょう。こんな曲が好きだという気持ち、美しいと思う心、演奏したいという意欲があればかまわないのです。しかし、それだけではやはり足りません。東洋という文化の中に育ったわたしたちは、西洋という異質な文化を理解しようとする努力をしなければなりません。それは、本を読むことでも、写真を見ることでも、また語学を学ぶことでもかまわないのです。

 

 そして、もちろん「オーケストラの演奏を聴く」ということも、大きな意味があります。オーケストラは、西洋の文化が生み出したひとつの完成した芸術形態ですし、そこで響く音は、長い歴史に磨かれてきた「いい音」であり「リズム」なのです。どんなに練習をしたとしても、いい音のイメージなくしては、いい音に近づくことはできません。指導者はもちろんのこと、演奏するひとりひとりの生徒ができうる限り「生」のオーケストラを聴くことが大切だと思います。

曲の全体像をつかむために歌ってみよう

 このオーケストラの中に、打楽器はどういう形で入り込み、またどういう役割を果たしてきたのでしょうか。

 歴史的に見ると、まず弦楽器があり、そこに管楽器が加わり、最後に打楽器がはいってオーケストラヘと発展していったのです。この打楽器は、十一世紀末から十三世紀にかけて中近東へと遠征した十字軍がヨーロッパへ持ち帰ったものでした。この頃、トルコでは打楽器が、軍隊の楽器として盛んに使われていたのです。古い絵画では、軍隊の馬の背に載せられたティンパニなどを見ることができます。

 こういったわけですから、はじめ、ティンパニやシンバルは、音楽に「東洋的な色合い」をつけるものとして利用されました。当時のヨーロッパでは、東洋への憧れはたいへん大きかったようです。モーツァルトやベートーヴェンが「トルコ行進曲」を作曲したのも、そういった東洋への憧れがきっかけだったと思われます。そして、その曲の中では、ティンパニが事実、東洋的色彩を色濃く出すものとして扱われています。
 
 打楽器というのは、トルコのティンパニに限らず、実に色濃く民族色を出すものです。「ドラ」などの金属的な音ならば中国を、激しく打ち鳴らすカスタネットからはスペインを、素朴なドラムの音からはアフリカを、ヤシの実のマラカスやギロからはラテン諸国を、また祭り太鼓からは日本を、容易に思い浮かべることができます。

 なぜ、打楽器がこれほどまでに民族色を出すのでしょうか。それはリズムというものが、音楽の中でそれだけ重要な位置を占めているからです。音楽の中心にあるもの、それがリズムではないかと、わたしは考えます。リズムのない音楽なんて考えられません。たとえメロディーがなくても、リズムがあればそこに音楽は生まれます。そしてそのリズムは、実に多くの色彩を音楽に与えるのです。

 このことからわかるように、リズム=打楽器は、オーケストラの中でとても大切な役割を果たしています。もちろん、トランペットもバイオリンもリズムは刻みますが、それ以上に打楽器のつくるリズムが、曲の根幹となっているのです。人間にたとえれば、打楽器のリズムは心臓の鼓動です。歩いたり、手を振ったり、踊ったり歌ったりすることも、みんなこの心臓の鼓動の上で成り立っているのです。家にたとえれば打楽器のつくるリズムは屋台骨です。全体を支える柱であり梁であるわけです。クラリネットやバイオリンの音色は、窓やドアや壁や、様々な装飾といえるでしょう。

 以上のようなことをふまえると、打楽器奏者にとっては何が大切か、自ずとわかってきます。そうです、「曲の全体を把握すること」が欠かせないものとなってくるのです。曲全体の流れやイメージを、まるごと、しっかりと心と体にたたき込むことによって、その曲の心臓の鼓動ともいえるリズムをしっかりとたたくことができるようになるのです。

 このためにもっとも効果的な方法は、スコア・リーディングです。もし、スコア・リーディングが充分にできないというのであれば、単に他のパートの旋律を声に出して歌ってみるだけでも効果はあります。多少、音程が狂っていても、声がよくなくてもかまいません。声に出してみることで、曲のニュアンスが自分の体の中にはいってくるからです。打楽器は、休みの多いパートです。十八小節休みで一拍打つ、ということもザラです。しかし、休みの十八小節を漫然と過ごして、一拍ドンと打ったのでは、屋台骨とはいえません。スコア・リーディングをし、声に出して歌ってみることで得た曲のニュアンス、その中で十八小節休みの意味もわかってくるでしょうし、一拍の持つ大きな意味を知り、心を込めて打つことができるようになるでしょう。

気軽に楽しむ小アンサンブルのすすめ

 ところで、クラシックのいわゆる大曲の全体像を心の中にたたき込むというのは、決して容易なことではありません。むしろ、中学生や高校生には、少し負担が大きいのでは、と感じる面があります。それで、前述したバンドのように、ある一曲だけは完璧に近くても、応用がまったくきかない、ということになってしまうのです。

 先日、アメリカの子どものジュニア・フィルと、日本の子どものジュニア・フィルを指導に行くチャンスがありました。ここで見た子どもたちの様子が、アメリカと日本では、まったく違うのです。指導をしている時は双方、いい演奏をし、大きな差も感じないのですが、問題は休み時間です。日本の子どもは疲れたような顔をして、ただ椅子に腰かけているだけです。ところが、アメリカの子どもたちは、「おい、モーツァルトやろうぜ」という具合に、どこからかカルテットの楽譜をとり出し、楽しそうに演奏しているのです。それをぐるっと囲んで聴いている子もいます。アメリカの子どもにとって、小アンサンブルは、一種の遊びや息抜きのような要素も持っているようです。

 これが実に大切なことなのです。小品ならば、曲の全体像を把握するのも楽です。無理なく楽しむこともできます。そして、これらの小品を数こなしていくうちに、自然と力もついてきます。そうやってつけた力を土台に、たまには大曲に取り組んでみるのもいいでしょう。また、クラシックのアンサンブル曲に限らず、耳慣れた曲、知っている曲を演奏してみるのもいいことです。すでにその曲の全体のニュアンスを知っているので、その上で表現ということを考えられるからです。歌謡曲でもジャズでも、ジャンルは問いません。

 こういった、自由で自発的な雰囲気の練習ができるようになれば、バンドも、だいぶ力がついてきたということになるでしょう。

音楽は人間の生み出した最大の魔法

 「マーチングをするといい。」「オーケストラの生の音に触れるべきだ。」「スコア・リーディングが大切。」「小アンサンブルを数こなすこと。」― 今まで述べてきたどれもが、どこかで一度は耳になさったことではないかと思います。それが、どういった意味を持つのか、ということが、少しでもおわかりいただければ幸いです。どんな練習でもそうですが、能力を百パーセント引き出すには、ただやみくもに与えられた楽譜をこなすだけでは、その道のりは遠いと思います。マーチングをするにせよ、アンサンブルやスコア・リーディング、日々の基礎練習をするにせよ、何のためにその練習を行なうのか、何を求めて練習しているのかをはっきりと自覚することが大切です。

 それは、ひと言でいえば、音楽で表現するためなのです。わたしは、音楽とは、人間の生み出した最大の魔法だと信じています。音楽の中には人間の哀しみも喜びも、自然も、宇宙も、あらゆるものが含まれています。その中心に位置するリズムというもので表現できることに、わたしは大きな楽しみを見出しています。「音楽する喜び」― 指導者も生徒も、全員がこの喜びを感じられるようなスクール・バンドづくりを目指していただきたいと思います。

(1983年 BAND WORLD)