日常生活のソルフェージュ1

有賀 誠門

私が、なぜこういう考えをするようになったか、そのいきさつをお話しするのがHow toものよりいいと考え、書き出しました。

 私は、長年にわたりオーケストラ活動と室内楽活動を通して西洋音楽を演奏してきたわけですが、その間にリズム感が本質的に異なることに気づきました。今から20年ほど前(編集者注:執筆当時から数えて)、ニューヨーク・フィル・ハーモニックのティンパニスト、S・グッドマン氏が、

「我々はいかなる指揮者が来ようとも、我々は、我々の音楽、自分の音楽をやる・・・」

と語った言葉は、私のそれまでの様々な悩みを払いのけてくれました。やる以上その音楽の本質にせまることだと直感しました。

 まず、西方の指揮者と東方の指揮者の音楽観の違いが余りに大きいことにはじまり、やがて次に挙げたようなことを解決しながら、私の現在のリズム観(感を超えて)を創りあげてくれました。

l. N響の北米楽旅における友人の発言
「変ったチャイコフスキーだね」
2. サヴァリシュ氏の表現法
3. ある奏者とティンパニのたった一打の相異
4. 風土からくる相異
5. 剣聖、宮本武蔵の話
6. ストラスブール打楽器合奏団の響きとそのアンサンブル方法
7. バーンスタイン氏の『エロイカ』
8. チェリビダケ氏の考え方
9. 冬季オリンピック、インスブルックよりのTV中継『行進の足もと』
10. ヒンガー氏のタッチトーン演奏法と上半身の体の動き
11. 上の発想と下の発想
12. 鳩の動き
13. シュツットガルトオケでの経験
14. 犬の吠え方
15. 何故に四分音符というのか?
16. 小節線をはずす
17. 音は何からどうしたら出るのか
18. 日常生活の何気ないしぐさ
19. 撥はなぜ丸いのか
20. 自然と人間の関係
21. 筋肉運動と神経集中
22. 有機的音階の感じ方
23. 呼吸と象徴的動きを示す人間の行動
など。

 これらのことが音楽の読み方と演奏法にかかわってきたわけです。演奏法をつきつめてみますと、その演奏の動きそのものが音楽的リズム運動なのに気がつきました。

 さらに私を変えさせたのは1枚のレコードでした。『ニューギニアの音楽』という1枚を聴いた時の驚きは何にも変えがたいものでした。音楽とは生々しいもので理屈ではない。呼吸する人間の営みに感動したのでした。呼吸している — それは生きとし活きていることである。息遣いがひしひしと伝わってくる。原住民とか、西洋人とか、黒人とか。そんなジャンルに分けることはできない。
 人間は人間なんだ。すべての人間の体内には赤い血が流れている。肌の色は違っても血は赤い。血液型が同じならば輸血可能なのだ。輸血するとは人間と人間をつなげることである。私がボストンに留学していた時、J.F. ケネディ大統領が暗殺されました。ちょうど、ボストン響の演奏会を聴いていた時です。急きょ演奏曲目は変更され、ベートーヴェンの第三交響曲『英雄』の第二楽章“葬送”が奏されました。

 それから1週間、すべての放送は、ケネディに関するもので荘重なクラシック音楽だけが流されていました。私は大統領の棺がアーリントン墓地に運ばれる時、どのような音楽がどのようにして奏されるかと、非常に興味を持って待っていました。一国の主の葬儀であるから壮大な吹奏楽による行進かなあ……と思いつつ当日を迎えました。

 TV画面から流れてきた音は何と低く重い響きで

と鳴らす太鼓だけによるものでした。えんえんと・・・。

 あまりに単純な音楽!響きのリズムがすべてを表わしています。太鼓は何と素晴らしい楽器だろうと、あらためて認識し直したのです。勇者の人生の退場にふさわしい音楽を太鼓が演じる。太鼓の太は“大大” の略字で、アフリカでは、鼓面を心臓、胴は循環器、締紐は神経、中には木の実か、小石が入れてあり、それは魂を象徴しているといわれています。魂を奮い立たせ、打ち鎮める。大宇宙と小宇宙である人間をつなぐ神具、それが太鼓なのです。

 かつてリズム感を考えていた時、音とは、どのようなものなのか、みえない。しかし、みえる。まぶしく、光り輝くものである。とひらめき、今までそのイメージは続いています。

 ぶつかると音が出る。(I)×印を離してみる。(II)のようになり矢印となる。それ以来、矢印は私にとって切っても切れない重要な意味を持つことになりました。

 離れる時に音がする。開かれた時に音がする。私にとってこの開かれる瞬間こそ生きている証しなのです。閉ざされたエネルギーが開く。

 それはまさに芽が上に伸び、根が下に伸びる、その接点が大地である。紙を左右に引っ張る。音がする。張ると音がする。エネルギーの痕跡が大地である。大地が響きわたる。響きわたる大地がヴァイオリンならば、響きわたる人間の足はさしづめ弓である。響きわたるものと響きわたるものが共鳴すれば、巨大な響きである。

 今の私は、すべてが音楽になり得るのではないか、音楽として感覚することができるのではないかと考えるのです。

 意識も音楽になり得る。タバコの煙が立ち昇る。それを視る自分の意識も動いている。動くものは響く。動いたように響く。煙と共に動く瞬間が音楽である。瞬間は火花である。その意識のフィードバックが音楽となる。“意” は人間だけが持ち得るものであり、気の中にいるのも人間です。意も気もみえない、しかしみえる。そこにこそ人間の創意があり、イマジネーションは人間に残された最後の財産です。自然は人間に色々なことをだまって教えてくれる。自然の息遣い。その中で人間が生かされていることに気づかねばなりません。外気と内気の呼吸こそ生きている証しであり、呼吸は立派な音楽です。

 すべてがみえないエネルギーでつながっている。自然はすべてを包んでいる。その中で生かされている人間が創り出した最高の魔法は音楽です。自然は純粋な音楽なのです。