パーカッションのルネサンス
打楽器奏者の目から見た今日の音楽と音楽教育 —— 連載第17回
― エピソード あるティンパニ学生のめざめ
普通高校のオーケストラ部で部長をつとめながらティンパニを受けもっていた男性の手記です。読んでみて下さい。多くの吹奏楽部でパーカッションを受けもっている人たちも同じだと思います。仕事をする(音楽する)本質に気づいていない場合が多いのです。
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人間は何かを表現するためにあらゆる手段を考えます。たとえば音によるもの、視覚によるもの、においによるもの・・・。その一つに音があり、音楽があります。人の注意を引くために手を合わせて打つ、ドアをノックする。そうすることによって自分の存在を主張することができます。そんな単純な構図を僕は意識していませんでした。目の前にある楽譜とにらめっこをしながら、書いてあることだけをやる。速くバチが動けばよい・・・。
今までの僕の演奏に対する態度には、目的がありませんでした。ですから音楽をやることは好きなのに、いざやってみると何かつまらない、物足りない、という矛盾を結果的に感じていました。
そんな時、先生のレッスンを受けることができて、自分の音楽に対する価値感、いや、それだけでなく、人間として生きるための考え方がガラッと変わり、日々の生活で体験すること全てが非常にみずみずしく見えて、人生が楽しくなったのです。
最も大きく意識が変わったことは「発着」についてです。手(またはバチ)が物に触れた時が「発」であり、その結果出た音が「着」というこの現象を、僕は音を出すために振りかぶるはじめが「発」で、打面にぶつかる瞬間を「着」と思い込んでいました。こんなことは、ヴァイオリンを見れば一目瞭然なのですが、先生がボールを投げた時、自分はこの間違いをはっきりと訂正することができました。ふと考えると、このことは現代の日本における教育を表わしているかのように見えます。大学に入るまで死にもの狂いで頑張って、合格して入学したら遊びまくる・・・。入学してからも大変な他の国の教育事情とは次元が違うようです。
自分は、この「発着」を教わった翌日からティンパニが、木琴が、スネアが、格段に面白くなりました。学校のティンパニだからといってあきらめていた「聞き苦しい音」は実は自分が原因でした。楽器が生きているようでした。今までにはない感動がありました。けれども「音楽」というものの本質をより正確にとらえるにはさらなる意識改革を必要としていました。先生のご指導はそうした必要性を確実に捉えていたのです。
「音楽すること」その基盤となるものは、音楽しようとする意気込み、「のり」でした。そしてこのバックボーンがなければ音楽は聞こえない、そうした認識に絶えず気づいていることが今の自分にとっての大きな課題です。しかし、わずかながら認識できたのは本当に幸せです。一日も早く、この問題を乗り越えることができれば、と思っています。
いま、われわれの世代は何もかも用意され、多方面にわたってマニュアル化が進んでいます。その中で僕はいま何をしたいのか、そうして求めるものをアピールしたい、また、そうしなければならないと思います。もし先生にお会いしていなければ、自分の中に本当の音楽はなくなってしまい、そして自分も消えてなくなってしまうと思うのです。ですから、先生にご指導いただいたことは、認識を新たにするという点で大きな意味をもっていたと感じています。これからも、たくさんのことを気づかせて下さい。
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ヨゼフ・シュトラウス『かじゃのポルカ』より(楽譜はL・クレン版のパート譜をベースに)
「発」「着」はバスケットポールを自分のもとから両手を使って離す、それを相手が両手でとらえる、という感覚です。お互いにやりあって下さい。スピードがあるときは直線になることがわかると思います。
『かじゃのポルカ』をこのfeelingで歌ってみましょう。スタッカートの多い曲です。16分音符のところを「かけあがる」感じでやると軽快な曲想が出ます。ホップ、ホップ、ホップ・・・。
(1994.3)