私の期待すること

有賀 誠門

 鋭い洞察力をもったフィリップ・ジョーンズが、5年前、金管楽器によるアンサンブルを編成し2度目に日本を訪れた時、私は、その格調高い、知的にして遊びの精神を取り入れたステージを聴いてたいへん興味深く、又楽しませてもらった事を思い出す。

 その演奏は実に端正で、響きは透明度高く、音楽はよく吟味されていた。あるよく制された中に自発性が生きていた。それはまさに私が日頃考えている西洋音楽の響き、リズムに関する理想的な表わし方(上の発想と名付けている)に一致するものであった。

 コンサートを離れた彼等の普段の生活をみることにより、その裏づけも得られるかと、後日そのクリニックも聞かせてもらった。このアンサンブルのメンバー達は、品のあるユーモアをまじえて日本の若い管楽器奏者を日常生活の現象を通して見事に指導して行った。

 発音についての発想は皆同じで、楽器がたまたま違ったにすぎない。トランペット奏者はトランペット属のすべての楽器を奏することが出来るし、得手、不得手はない。技術的なことは勿論だが、伝統の上に立っているかと思われる知的遺産‐考え方-による生活理念が演奏者の音楽理念となって音の背後に存在しているのではなかろうか。
 
 ともかく、アンサンブルの一つの行き方を示してくれる理想的な、魅力あるこのフィリップ・ジョーンズ・アンサンブルが今日、日本の管楽器アンサンブル隆盛の発端となった事は間違いない。

 日本では今まで管弦楽を中心とした音楽が盛んであったが、最近では多様化して、新しい形態のアンサンブルが組まれ、様々な音楽が聞ける様になってきた。コンサートホールでの大きなものから、サロンでのミニコンサートと広がってきたことは好ましいことである。

 金管楽器でもトランペット属、ホルン属、トロンボーン属、テューバ属が、それぞれ独立したコンサートをもつ程になり、木管楽器でもフルート属、クラリネット属、サキソフォーン属だけでの音楽が演奏されているのが咋今である。

 私はかねてからオーケストラの弦楽器群、木管楽器群、金管楽器群、打楽器群は、それぞれ独立し得る能力をもっていることが望ましいと考えていた。そうすることによって、演奏者の自発性が促がされ、オーケストラは活性化する。聴衆も奏者もマンネリ化した定食コースから解放され、新鮮な演奏と変化に富んだプログラムを楽しむことが出来るようになる。今まで音楽とは、オーケストラ、ヴァイオリン、ピアノと歌だけと考えている一というより固執している人達が多かった。吹奏楽はマーチだけと思っているオーケストラ奏者、金管楽器といえば信号ラッパか、オーケストラで—寸吹く楽器ぐらいに思っている人達が多かった。それから脱却することによって音楽はより巾広くなる。
 
 本来、音楽は日常のさまざまな時に使われて来た。祭典の時、狩猟の時、行進の時、祈りの時、葬儀の時、はたまた酒場にて、踊りの時、嬉しい時、悲しい時、それ等を通して人問の人生観、宇宙観へと思想の世界につながる。これが西洋の音楽風景なのである。日本ではごく限られたところでしか音楽はない。しかしその原点に思いをはせるならば、日常生活において音楽は欠かせないものとなる。管弦楽はこの様に使われていた音楽と楽器が集まって出来た最高の演奏形態である。

 演奏する者のしっかりした「技」、「考え」と「音楽的ストローク」によって裏打ちされた音楽は、き然とし、説得力があり、感動をおぼえる。曖昧さは消え、すべてに光があてられる。

 アンサンブルの楽しさは、自己の意志により、責任、義務をはたす事により味わう事が出来るし、相手によって、より自分を高めることが出来る。自分の出した音が他の音に融合したり、衝突したりすることによって音の化学反応が起り、第3の音楽が出来る。その妙味を知ったらやめられない。また自分を客観的にみることが出来る。それぞれの気質によって音の色彩が微妙に変化するさまは、気象の変化に似て人間による自然現象の知的創造である。

 フィリップ・ジョーンズは、今回も金管楽器による音楽の素晴らしさと楽しさばかりでなくホクタングにもみられる音楽の知的遊びを聴かせて、好楽家を喜ばせてくれるだろう。いずれ木管、打楽器を加えたプログラムを組んでもらえたら嬉しい。

(1981年 フィリップ・ジョーンズ金管アンサンブル)