母校を卒業して四十年近くになります。振り返ってみるとその間、政権が変わっていなかった。しかし、世の中は変わりに変わった。
小生の終戦は小学二年生くらいの時であるから、十才以上の男性は、特攻隊兵士として従軍していたわけである。その人達の手記を、今の同じ年代の人が読んだら「考えられない。異星人みたい・・・」といって本を投げ出してしまったという。彼らの「意識」を読み取れない程に「進化」したのか、「退化」したのか。
戦争の恐ろしさ、命の尊さを語り継ぐことを怠ってきた「つけ」だと思う。日本に一万円札が発行された当時、一般サラリーマンの月給は一万五千円程、アメリカ人は三十万円ぐらい。1$=360円、アメリカに行けば400円ぐらいになった。一九六三年、私がアメリカに留学した時、日本経済は戦争で疲弊しており、海外への外貨持ち出しは$200までと制限されていた。それ以上必要の場合は、一親等、二親等と血縁関係から、何$か借りるのである。
とにかく十二万円払い、横浜から貨物船で、霧雨の中出航した。北回りの十日間の船旅。食事は船長、パーサー、乗客八名で毎食フルコースという王様待遇である。メニューにグレ—プフルーツとあり、ブドーをわざわざグレープフルーツと言うのかなと思ったり・・・。
出てきたものは一個を半分にしたもの。はて?どうやって食べるのかわからない。周りの人の食べ方をみる。だってそれまでグレープフルーツという果物を知らなかったのである。高価な輸入品であり庶民の口には遠かったのである。さらにアメリカに行って驚いたのは、スーパーマーケットの大きさ。紙製箱に牛乳が入っている。日本では牛乳瓶が毎朝配達されていた。冷凍食品がある。日本では冷蔵庫、テレビ、自動車は三種の神器といって、一般の人には高嶺の花だった。テレビを神棚に備えて見ていたという、笑えない話もある。魚、肉が適量に切り売りされている。十年もすれば日本も同じようなシステムになるだろうと予想したら、あっという間に日本中がスーパーマーケット化してしまった。
さて、私がアメリカに行くことにしたのは、ボストン交響楽団の来日公演を聴き、その素晴らしさに感動し、これからはヨーロッパよりアメリカだと直感したからである。まずタングルウッド音楽祭に参加後、ニューイングランド音学院で学んだ。ユニオンが厳しく中々正規に働くことが出来なかった。財布の中身は少ないが、勉強している充実感があり、貧しいと思ったことはない。一日二食、それも玉子焼き、パン、牛乳、果物といったところ。酒、煙草は一切なし。演奏では、アメリカ人に負けていなかったから気力は十分であった。
あるアメリカ人がつっかかって来た。英語でベラ、ベラとまくしたて「わかったか?」と言う。わかるはずがない。「Please speak slowly」と言ったところ、馬鹿にしおった。小生、頭にきて、日本語で「… … … …!」とまくしたてた。「わかったか?」と言うと「わからない」と言う。そこでドイツ語はどうか?と言うと「知らない」と言う。私は「eins zwei, drei, …」「wie geht es ihneu?」等とわずかの会話をしゃべった。フランス語、イタリア語、スペイン語、と同じ様にやったのである。相手は全然わからない。そこで私は「I can speak six languages」「You can speak English only!!」と言ってやった。そうしたら相手は「柔道をやるか」と言うから「Yes, I can throw YOU 」と咳呵を切ってしまった。高校二年の時、柔道を習って以来、殆どやっていない。タングルウッドの芝生の上でやるはめになってしまった。とりあえず、受身のデモンストレーションをする。畳の上での経験はあるが、芝生の上では初めてである。周りは30~40人くらいの野次馬がとり囲んでおり、やるしかない。外人は足が長いから「体落し」がきくと判断し、私の得意技でもあったことから、見事に決まる。野次馬の拍手の中で「私」の存在が認められたわけである。それ以来、彼は「Mr. Aruga」といって、色々な事を相談にくる様になった。その彼は現在、バルティモア交響楽団の首席奏者として活躍している。お金で買えないものを身につけておくことは非常に大切だと思った。これも父親のお陰と感謝している。日本文化の一つを示すことが出来ることは文化交流の必要条件の一つであると思う。
私の師匠、Vic Firth(ボストン交響楽団首席奏者)にも「日本に来たら、日本語の一つぐらいしゃべりなさい」とけしかけていたら、最近では、日本語で電話してくる程になった。
池田内閣のトレードマーク、高度成長と所得倍増計画に国民は踊り、製品の品質管理向上により、日本の自動車、電機製品がまたたく間に世界中に出まわる様になり、外貨を稼ぐことになった。外貨持出制限は解除され、ようやく日本国民は、外国のあちこちに出かけられる様になった。金は持てど、しょせん成金、わがまま、旅の恥はかき捨て、大勢で渡れば恐くない、物崇拝、等々、数多くの話題がある。精神文化の低さをまきちらすことになった。文化が人間を育てるのに、文化に力を入れていない行政。国際交流と文部省は盛んに言っているが、現状は個人の意見を持つことを全く歓迎しない。規格品を作ることが和をもたらすと考えている人がかなり多い様だ。農業(水田)では伝統が重んじられ、変革は良しとしない風土をつくりがちであるから、そこには発想というものは育ちにくい。
ある人によると、多くの日本の人達は、素晴らしい風景を立体的(遠近法)に見ることが出来ないので写真を撮りまくるのだ、と言っているのも一理ありそうである。音楽でいえば、音楽を立体像として聴こえないことと同じである。単旋律を斉唱で歌ってしまうこと、対旋律をからませることが苦手である。ハーモニー(調和)感が育たないのも、風景を見れば一目瞭然、街並みの色彩、建物も雑多、これが我国の現状なのである。
街全体をどの様にするか、全体をみる意識も低く、イメージが乏しい様に思う。イメージは人間に残された最後の財産だと思うのだが。色は音が変化したものであり、どの様な色彩を持つかは、どの様な響きを持つかと同じなのである。オーケストラ活動をしていて気がついたことは、クラシック音楽は殆どが足の運動から起こる音楽が多いということである。マーチ、ワルツ、マヅルカ、ポルカ、チャールストン、ロック等数多い。そこで歩く運動からどの様なリズムが生まれるかを試みる。あるリズムが生まれた時には、何ともいえぬ驚きをおぼえた。ヒントは「鳥は二本足である。だから人間も同じように動くはずだ」。鳩の動きを見ているとどうも上半身という部分が二倍早い運動をしていることがわかり、その様に動かすには、と「矢印」という記号を使い、自分の体で試みる。人間は立ってしまったが為に、動きを忘れてしまったところがあることがわかった。しかも社会的儀礼による拘束も動きを限定しているのである。立ったことによって自由を得たはずが、仕事、習慣、慣例等によって不自由に、せまい身体にしているのである。最近読んだ本の中にすてきな文が載っていたので書いてみます。何か感じられればその人はまだ救いがあるでしょう。
『日に日に無神経になっていくこの世界で、わたしたちは癒蓋(かさぶた)だらけの感受性の殻に閉じこもって暮らしている。どこまでが大いなる情熱で、どこから、つまらない感傷が始まるのか、私にはわからない・・・。』(「マディソン郡の橋」R・ジェームス・ウォラー、村松潔訳、文芸春秋社より)
自然な体の動きこそ、己を解放してくれるのである。では自然とは・・・。共通項を求めよう!まず地球はまるい。太陽はまるい。衛星もまるい。樹もまるい。玉子もまるい。蛇もまるい。魚もまるい感じ。血管もまるい。人間の胴もまるい。腕もまるい。目もまるい。穴もまるい・・・。従って道具類もまるいものが殆どである。太鼓もまるい。車もまるい。円運動であり、回転運動、循環運動、周期運動である。植物はガスを吸い酸素を出す。人間、動物は酸素を吸い、ガスを出す。いまのところ、人間はどこにゆくにしても酸素なしに生活出来ないのである。よって先住民族ならぬ、地球の先住者、「水」そして「植物」の作り出した酸素によって人間が人間として生きながらえるのである。知識として知っていても、行動がともなわない人の多さをみると心が貧しいのでしょう。私は森、林、草、等々が水中のコンブ、藻等に感じられるのである。人間は自然を利用させていただいているのである。昔の人達にはその心があり、継続されてきたのであるが、便利が、経済が、優先され、自分だけの無感動な風景があちこちでみられる様になった。
樹をくりぬき、動物の皮を張ったものが太鼓である。自然に音楽することで返してやるしか出来ないちっぽけな私である。音は空気振動によって伝わるのである。あー何ともおろかな人問たちが多いことか、戦争も自我の戦いなのではないだろうか、一刻一刻を新鮮に鼓動させている心臓は自分の意ではどうしようもないのである。地球の鼓動に耳をかたむけよう。自然の声を聴くことが何より必要な時であると思う。自分の心の音を聴くことから始めようではありませんか!
(1993年10月 会報・桔梗8号)