パーカッションのルネサンス
打楽器奏者の目から見た今日の音楽と音楽教育 —— 連載第21回
・ステップ運動、「のり」こそは音楽の生命
有賀誠門(打楽器奏者)
1750年代、Johann Wilhelm Hertelというドイツの作曲家(ハイドンの同時代)は『8個のティンパニ、2本のオーボエ、2本のトランペットと弦楽合奏のための協奏曲」を書きました(去る4月20日有賀誠門「ティンパニの生態」公演にて本邦初演、他に『8個のティンパニと5本のチェロのためのアダージョ』も初演)。これを演奏して思ったことは当時の作曲家は、ティンパニをよく研究しているということでした(ハイドン、バッハはティンパニをとても重要な楽器として使っています)。しかも、ソロ楽器として使っているのには驚かされます。当時のティンパニストは花形スターだったに違いありません。だって譜例1の音を並べて演奏するには立って奏するしかない。坐ってなんかいられない。しかも、この曲にはティンペニのカデンツァまで書かれているのです。大きなドラムを目の前に置いて奏するわけですから、右から左へ、左から右へ、そして前後の動きがあり、上から下への運動でなく横の運動が行なわれます。前にソナタ、ソナチネの第1楽章はマーチが多いと指摘しました。日本ではマーチというとある特別な歩き方と思っているようですが、足の運びの動きをどのようにするか、です。
このたび打楽器アンサンブルを組み、小・中学校の生徒のために音楽教室をまわりました。そこで試みたことは、〈Percussion Sequence〉というマーチングの曲を演奏し、生徒たちに歩くという動きをさせたのですが、中学生で、もう「歩く」という行為が不自然になっていることでした。床から足をはなそうとしないことです。足を床からはなし、上にあげる動作は、息を「吸い」あげる行為と同じであり、上から下におろす行為は「吐く」行為なのです。すなわち「歩く」行為は呼吸と同じ現象です。突っ立ったままの学生がかなりいたということは、息を吸うという行為が体全体で行なわれていないことだと思います。スポーツをする場合かならず行なわれる行為が日常の行動で行なわれていないとは、恐しいことだと思います。水の中を泳ぐ場合にはそれが行なわれているのに、空中を泳ぐ時にそれがなされていないのは実に不思議だと思います。この記事を書いている最中、NHK教育TVである外国の高名な指揮者がベートーヴェン作曲の『英雄』を指揮していましたが、息ができないのです。ただ速く演奏しているだけで息使いがないのです。「吸い」がない指揮者が多いこと、世界中がこんな調子であるから、クラシック界は、やはりおかしくなっているようです。やはり原点に戻るべきではないでしょうか。突っ立ったままというのは「吐いた」そのままの状態であり、死の状態と同じなのです。
ラテン音楽の典型的なリズム、譜例2のリズムにのれない。ステップを踏むという行為は、ぜひとも体感してほしいことです。伸び、伸び、↑ ↓ ↑ ↓・・・の運動はすべての原点だと思います。空中で泳いでいるつもりになれば、かなりいいfeelingだと思います。日本では、ダンスホールで踊るという行為は不良の人たちがすることだという社会通念があったと思います。ましてや男子と女子が体を寄せ合い踊る行為はタブーでした。しかし、今ではそれはなくなりましたが、教育の現場では、建前が前面に出て、本音がかくされていると思います。この際、おおいに学校でダンスパーティをひらいてはどうでしょうか。ワルツのステップくらいを覚えておけば国際交流に役に立つし、ワルツのステップを踏んでみてから「カッコーワルツ」を弾いてみると、頭で考えたワルツとは全然違うものになるはずです。音楽学校は出ても動きを知らないから、ワルツのおもしろさが表現されません。
の運動を体感すれば、Rock music に通じるし、アフリカの音楽にも、Swingにも応用ができます。音楽を静かに聴くことも大切ですが、楽しい音楽は大体、体を動かしたくなるものが多いのです。日本の現代作品でもすばらしいものがありますが、「のり」のある作品は皆無といっていいでしょう。体の中から何かエネルギーがうずいてくる音楽が、もっと身近にあってほしい。動的音楽を体感することが、静的音楽へのステップでもあると思います。マーチ、ワルツ、ロックと踊りの種類に余りこだわらずに、ステップを踏んでみる。スキップをしてみる。ジャンプをしてみる。何かその運動の中から音楽を感じ取ることはむずかしいでしょうか。打楽器は、メロディーはなくとも音の高低、音色などで変化をつけることができます。なにより「のり」が必要なのです。知っている曲をやるのも一つの方法、創り出すのも一つの方法、その方がもっと面白いのです。ケネディ大統領の葬儀の音楽は、譜例3の太鼓だけでした。
(1994.7)