パーカッションのルネサンス 22

パーカッションのルネサンス
打楽器奏者の目から見た今日の音楽と音楽教育 —— 連載第22回
• 音楽にめざめよう

有賀誠門(打楽器奏者)

 ニューヨーク・フィルハーモニックが来日し、何回かのコンサートがあり、その最後の公演を7月4日サントリーホールで聴きました。親友Kohloff氏(ティンパニスト)のプレイとオーケストラを久し振りに聴いてみたくなったのです。

 女性奏者が多いのにまずびっくり、何とヴィオラ・セクションの1プルト、2プルトは女性がおさえており、1世代前の男世界から完全に解放されています。時代が世界を変えている!ファゴット、フルートの首席も女性でした。ヴァイオリン群も女性が半数近くでした。かつての「アメリカを代表するニューヨーク・フィルハーモニック」のイメージはなくなり、非常に身近な存在に感じられました。とてもよく弾く、実に気持ちのよい演奏姿勢です。演奏姿勢にのりがあるので「音楽ののり」がよく出てきています。

 立つ動作も、スッと立ち、私が考えているとおりの所作なのです。響きは日本とは雲泥の差、とくにチェロ、ベースの低音群の響きは日本では聴けません。響き感の違いはどうしようもないのでしょうか? ティンパニは、その響き感と同じであるため、「叩く」とか「打つ」というイメージとはほど遠いのです。すべての楽器群が響きを創りあげているのです。響きのイメージは生活態度まで変えてしまいます。楽屋裏の静かなこと、無駄な音は何一つ出していません。

 モーツァルト作曲『リンツ交響曲』、ブルックナー作曲『交響曲第4番』というプログラム、ブルックナーでのオーケストラの底力は余裕があり、さすがアメリカのオーケストラ、満喫しました。アンコールにワグナー作曲『ニュルンベルクの名歌手』序曲、そしてガーシュイン作曲『ポギーとベス』より。最後の『ポギーとベス』は、ウィーン・フィルがウィンナワルツ、ボルカを演奏するfeeling、実にしゃれた彼ら独自の音楽がそのまま出ているのです。ハテ!?わが国にそのような作品が身近にあるだろうか?とても少ない気がします。

 ヨーロッパから何もないアメリカに渡り、自分たちの音楽をと、オーケストラを創立した新天地でのヨーロッパ人、その新天地では様々なヨーロッパ人が渾然一体となって生活し、音楽をしていました。そこに黒人も加わり、独自のエネルギッシュな音楽が創り出されてきました。アメリカのオーケストラはヨーロッパ・スタイルから、アメリカ独自のスタイルに変貌し、音楽のスタイルをも確立したのです。ヨーロッパのオーケストラと違い、アメリカのオーケストラは軽いとか日本では言いますが、そんな簡単なことで判断はできません。私は1960年来日したボストン・シンフォニーを聴き、「これだ」と直観し、単身アメリカに留学しました。まわりから変な目でみられていたのは確かです。(いまでも日本はベルリン、ウィーンですからね!?)

 アメリカでは「まずやってみよう」という発想があります。これはいまの私を支えているエネルギー源です。

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 クーセヴィッキー氏の発案でボストン・シンフォニーの演奏シーズンを延ばすことで楽員の身分安定を図り、さらに若い人たちに音楽する喜びを教育することも兼ねて、タングル音楽祭が行なわれるようになりました。現在音楽家を目ざす若い人たちのメッカとなっているのです。

 ここではオーケストラだけでなく、現代作品の演奏も行なわれています。A.コープランド、L.フォスらがホストとして、ジュリアード弦楽四重奏団等の著名な演奏家が演奏しているのです。私が参加した年には、I.クセナキスはまだ学生として勉強にきていました。また、E.ヴァレーズの〈Arcana〉を演奏するので、ヴァレーズ本人が来ており、この人があの、打楽器音楽の『春の祭典』的作品、〈Ionisation)を書いた人なのか、と握手してもらったのはよい思い出です。大きな赤ら顔で髪は短く、活火山の風貌をした人でした。

 このようにアメリカというところは、常に何かがある、それをまたサポートしてくれる人たちがいること。常に可能性を試みています。

 日本ではなかなかこれが認知されていません。出る釘は打たれる、足の引っぱり合い等々、自己のアイデンティティをもたない人たちの集まりでは、物事は進みません。私はまず教育現場と教育体系に大きな問題が秘められていると思います。これだけ英語教育が行なわれていて英語が通じない。音楽には国境はないといわれていますが、音楽のあり方がわか っていないので、音楽はわからないといって脇によせてスポーツに肩入れし、文化文化といって、ただ外国のオーケストラやオペラを招いて高いギャランティを払っている有様は、異様としか言えません。根本的なところにメスを入れる必要があります。

 

(1994.8)